5月9日

午前

式内社から東大阪の歴史を学ぶ

講師 東大阪文化財を学ぶ会 会長 南 光弘先生

 今日は四条リージョンセンターで南先生から式内社と市内にある神社の関係や東大阪市の歴史についてお話を聞きました。 

 式内社というのは、927年に成立した延喜式神名帳に載っている神社のことで、当時「官寺」に指定されていた格式ある神社のことです。

 式内社はそれぞれその地の有力氏族の祖先を祀る「氏神さん」としてスタートしたもので、今日まで1,000年余の歴史があります。

 石切剣箭神社は物部氏の始祖の「にぎはやひの命」を、枚岡神社は中臣氏の始祖の「あめのこやねの命」をまつっています。

 その他東大阪市には鴨氏や和珥(わに)氏もあり、4つの有力氏族が勢力を誇っていました。 

 8世紀ころの東大阪は「河内湖」という大きな湖に面しており、この湖に沿って式内社が存在していました。氏族が湖畔で生活していたからでしょう。

 東大阪市には神武東征についての有名な話がありますね。神武が草香邑に着いて東に向かってナガスネヒコと戦い破れます。この戦いの故事は「石切」や「盾津」の地名になっています。

 また、石切剣箭神社(物部氏)から見て春日大社(穂積氏)は真東の方角にあります。古代氏族のふしぎな繋がりを感じます。


午後

=枚岡神社から生駒西麓を歩く=

 午前中に引き続いて、南先生の案内で枚岡神社から生駒西麓を歩き、額田の玄清寺までをめぐる街歩きです。

 枚岡神社のニの鳥居前に集合しました。

枚岡神社は「河内一の宮」とか「元春日」と呼ばれる神社です。「元春日」と呼ばれる訳は枚岡神社でまつる「あめのこやねの命」などのニ神を春日大社に分祀したからです。

 上の写真、鳥居前にある「元春日平岡大社」と書かれた石柱が、枚岡神社が春日大社の元社である歴史を表しています。

 二の鳥居をくぐって参道を進むと変わったしめ縄の広場に出ます。毎年12月23日に行われる「注連縄神事」や「お笑い神事」の舞台になるしめ縄です。

 あげまき結びという特殊な結び方だそうです。「お笑い神事」はこの広場で参加者が20分間大笑いしてこの1年間のいやな出来事を吹き飛ばし、新年の開運を願う神事です。

 参道の階段を上ると拝殿です。この拝殿は西向きに建てられており、参拝者が東を向いて(太陽に向かって)参拝するためです。

 拝殿の奥に四神をまつる本殿が四社あります。

 境内の一角に「常若の水」という神水が出ています。一口飲むと1歳若返るというご神水です。たくさん飲んだら子供に帰ってしまい

ます?

 神社から北へ向かうハイキング道を登ります。途中に、移転前の枚岡神社があった「神津嶽」へ向かう案内標識がありました。

 左手に東大阪の市街地が見晴らせます。遠く、左手奥にあべのハルカスも見えます。

 

 しばらく進むと暗がり越え奈良街道と交差します。この付近は江戸時代から水車を利用した伸線工場がたくさんあった場所です。

 いまでも野尻伸線所がレトロな建物で残っています。

 重願寺(じゅうがんじ)に着きました。

 重願寺の境内には「夜泣き石」があります。

 今から410年前、関白・近衛前久が秀吉の不興をかい、薩摩へ流される際、この地のススキの原を愛でて詠った句が刻まれています。のち、寺がなくなった時この石碑も他所へ移されましたが「元へ帰りたい」と夜な夜な泣くので、村人が元へもどしたところ泣き止んだそうです。

 

 重願寺を過ぎて額田駅へ下る途中に「楠木正行の首塚」があります。四条畷の戦いで討ち死にしたはずの正成(まさつら)の首塚がなぜこの額田の地にあるのでしょう。

 正行軍に従軍した額田の高内定行が敵に首を渡すまいとしてこの地に持ち帰り、埋めたというのです。歴史には諸説あるものです。

 額田駅を過ぎて少し下ると「玄清寺」に着きます。玄清寺は額田村の豪族、高内(たかのうち)正定が建立した浄土宗のお寺です。

 この日は本堂でご住職の息子さんからお話を聞くことができました。

 玄清寺は高内家の菩提寺なので一族の立派な墓所があります。古い墓石は南北朝時代のものだそうです。

 観音堂に有名な聖徳太子二歳像が安置されています。観音様、地蔵様と並んでいます。一番左側が聖徳太子二歳像です。

 

 枚岡神社を出発して額田まで約4㎞のハイキングでしたが、五月晴れのもと、心地よい汗をかきました。